「今を生きる」第189回   大分合同新聞 平成24年4月16日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(16)
 知識はあってもその知識に囚(とら)われるということがあります。ある外科医の話です。
 「父親と息子が日曜日、ドライブを楽しんでいて、運悪く交通事故に巻き込まれた。父親は即死し、息子は重傷を負った。重傷の息子は救急車で病院に運ばれた。待機していた外科の当直医は、運び込まれた少年を見たとたんに『私の息子だ』と叫んだ。」
   この話を読みながら、すんなりと理解ができたでしょうか。理解ができたとすると、偏見のない人だということです。多くの読者は頭が一瞬混乱しているでしょう。それは外科医は男だという思い込みがあるからです。科学的合理思考は本来、虚心坦懐(たんかい)に物事を見る冷静な見方のはずなのですが、ついつい思い込みという囚われにつかまりやすいのです。
 客観的に物事を見るということは囚われなく見るということです。知識があると思っている人ほど、「囚われなし」になれないのです。自分の知識や思考方法に自信という自負があるからです。
 世の中に年齢が120歳を超えた人の話は聞いたことがありませんから、客観性を尊重するわれわれの科学的な合理思考では「死」を免れることができないと考えます。そして生きている時間を延ばすことが長寿になると世間の常識では考えています。そしてそれ以外は考えられないではないか、と確信に近い自信を持っています。
 「時」を表す言葉がギリシア語では2つあります、「時刻(カイロス)」と「時間(クロノス)」です。クロノス時間とは、過去から未来へと一定速度・一定方向で機械的に流れる時間。一方、カイロス時間とは、クロノス時間を切断した時、大切な時、決定的な瞬間など質的な「時」を意味します。
 われわれは日々の生活実感の時間と歴史を知っているために、クロノス時間に囚われてしまっているのです。それで長寿は生きている時間を延ばすことしか考えられないのです。これを智慧がないと仏教では言います。

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