「今を生きる」第190回   大分合同新聞 平成24年4月30日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(17)
 このコラムの題「今を生きる」の「今」とはカイロス時間(大切な時、決定的な瞬間など質的な「時」)の「今」なのです。日常生活で、頭で考える時はクロノス時間(過去から未来へと一定速度・一定方向で機械的に流れる時間)になっています。しかし、身体全体で実感できるのは、この「今」しかないのです。明日になれば明日の「今」です。仏教は過去にこだわらず、未来に惑わされず、「今」の実感を大事にします。
 科学的な客観性を尊重する思考は、時計で計れる時間を考えて行きます。日常生活の中で「今を大事にする」ということは、よく聞く言葉です。しかし、どうしたら今を大事にできるのでしょう。非常に悩ましい課題です。なぜなら「今」という一瞬(一刹那)は捕えようがないからです。仏教の尊重する時は「今」という時刻であり、機械的に流れる時間を切断した時、時刻です。
 過去を振り返れば確実に経過した時間を数字などで把握できますが、「今」の瞬間は捕えようがないのです。その捕えようのない時を強いて表現するならば、ビックリした、感動した、目からウロコが落ちた、というような、日ごろの考えが覆された時に強い印象で刻まれるような質的な時です。
 この感動やビックリの時の積み重ねが、われわれの思考に影響を及ぼしてくるのです。なぜならば世間の常識といわれるようなものや、自分も慣れた思考の内実を翻すような展開を起こしてくるからです。
 例えば「死」とは、今、生きていることの延長線上の未来にあると常識では考えます。ところが仏の智慧では切断された質的な時を考え、一刹那ごとに生まれては滅す「死」を繰り返していると受け取るのです。
 もう少し分かりやすく一刹那を一日に延ばすと、朝、目が覚めた時は私の意識の誕生、夜、眠る時が意識の「死」と考えるに近い発想です。そうすると死が未来の未経験のものから、毎日経験していることのような受け取りへの展開が起こります。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.