「今を生きる」第191回   大分合同新聞 平成24年5月14」日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(18)修正版
 現代医学の準拠する時は時計で計る時間(クロノス時間、量的時間)です。そのために長生きとは生きている時間の長さということになります。生きている時間を長くするために、健康で長生きを実現しようと志向します。一方、仏教の考える時間は切断された質的な時ですから、その実感される時、今の質的充実、充足を志向するのです。そしてその瞬間、一刻の足し算(すなわち、「今」+「今」…というように足し算する)がクロノス時間になるように受け取っていくのです。
 世俗のわれわれが機械的な流れの時間を生きる時は、「今」という時を受け取るのが難しいのです。今、直面している現実が解決の難しい課題や悩ましい状況の時は、「今」という時から逃げ出したくなります。時には現実が私を傷つけます。それで未来の解決の時が早く来ないかなと期待します。
 一方、「今」が満たされて幸福を感じている時、その至福の時が早く過ぎたり逃げ去ることを惜しみ、今の時が続いて欲しいと願います。どっちの場合であっても、「今」という時は悩ましい受け取りになります。
 仏教の智慧(ちえ)で、その量的時間の中の「今」を感じている心の内面を見透かすと、不足・不満・欠乏や、はかない仮の充足、壊れやすい満足の状態であると指摘するのです。そして、心底からの満足の世界を感得できないのです。
 そのために未来に充足、満足を感じる状態になるように、明るい未来を目指して生きていかざるをえないのです。そうすると結果として未来が目的の時(知足を感じるであろう時)で、今は未来のための準備期間のような今になります。今(今日)が目的ではなく、手段・方法・道具の位置にあるような受け取りになると、その1日は終わってしまうと空過(あっという間に過ぎ去った、空しい)ということを免れることができません。
 未来の幸せを目指して『明日こそ幸せになるぞ』『明日こそ…』と死ぬまで幸せになる準備ばかりで時間が経過するのです。そうすると、量的時間で長生きしても虚(むな)しい人生になるのでしょう。

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