「今を生きる」第192回   大分合同新聞 平成24年5月28日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(19)
 時計で計る機械的な時間の世界では『今』という時間が捕らえようがないのです。日々の日常生活の中での「今」は常に変化し経過していくために、「今」という時は実感しにくいのです。時間をわれわれは見たり触ったりできないからです。その日常性の時間の流れが切断されるとは、感動とか、決心の時です。
 「歎異抄」(親鸞の弟子の唯円の著作)の第一章に、仏の心に触れて「念仏申さんと思い立つ心の起こる時、摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」と表現されているところがあります。仏の心に触れて「仏の教えの如く生きていこう」となる具体的な姿が「念仏申さんと思い立つ心の起こる時」なのです。
 念仏とは、口で仏の名を称える念仏です。仏の心に触れるとき、自分の愚かさ、小賢しさ、迷いの深さを自覚され自然と頭が下がり(合掌の姿)、愚かな分別を翻して仏の教えに従って生きていこうとする自分の勇気・意欲の表白なのです。
 晴天の九重高原の草原で空を向いて寝そべって青空を見上げる時、圧倒的な広い自然の中でちっぽけな自分に気づきます。同時に自分の存在が自然の中で許されてあり、包まれている感覚のような……、世俗社会の人間関係の中で煩わされている小さい存在の私が、非日常の大きな自然界の中で、「そのままあなたで存在が許されているのよ、何を小さなことにくよくよしているの、大きな世界のあることを忘れなさんなよ」と呼びかけられている声なき声を聞いて、自然に抱擁されて、自然と一体となっているような状態でしょう。
 日常の私が非日常の、質を異(日常の延長ではなく、圧倒的に大きい世界)にする智慧のはたらきを感得する感動、驚きの時、その一瞬に自分が何かに受け止められた、ほんわりと包み込まれていた、存在が許されていた、おかげさまの世界にすでに居たという安堵と歓喜の時でしょう。それは仏の世界(永遠)に出遇い、小賢しさが翻され、執われを超えて智慧の視点へと転ぜられて、生きていく勇気へと導かれるのです。

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