「今を生きる」第194回   大分合同新聞 平成24年7月2日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(21)修正版
 ある宗教学者が「私にとって宗教とは何かと、こう問われるならば、私自身の人生における本尊を明らかにする教え。それ以外のものを宗教と呼ばない」と言っています。
 そうしますと、神社仏閣など日常、目にする宗教施設は法律的には宗教という名前でひとくくりにされていますが、厳密な意味では宗教と言えないのかもしれません。そこでの活動は、歴史的・政治的・社会的・文化的しがらみを雑多に抱え込んでいるために、宗教の本質が見えなくなっている危険があります。
 仏教では、自分の人生を生きていく上で最も大事にする「考え」や「生き方」を“根本的に尊重する”という意味で「本尊」と言っているのです。自分の人生をどのように受けとめ、どのように考え、どのように生き抜いていくかの態度が、結果としてその人の本尊を示しているのです。自分の理知分別をよりどころとするか、仏の智慧(ちえ)をよりどころとするか、ということが問われてくるのです。
 仏壇の真ん中に本尊として仏像(絵像)を据えて、朝夕、願い事を祈願しているとすると。そこに表れているのは、願い事を満たすことを大切と考えている自分の分別を本尊としているという事実です。仏像や絵像を形の上で本尊として仏壇に安置していても、そこで展開している現象は、自分の思いを本尊として、仏を利用して自分の思いを実現したいと願っているということです。
 理知分別をよりどころとしている人は、総じていろいろな考えに耳を傾け、一応の理解を示し、極端な考えを避けて無難な考えを自分の考えにしていきます。そして世間的には常識的な人だと言われ、温厚な態度を取る傾向にあると思われます(これは私が普段から心掛けている姿勢でもあります)。
 しかしながら、仏教の智慧からいうと、人生における大事なものと、大事でないものの区別が分からない、迷いを繰り返している相(すがた)だというのです。

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