「今を生きる」第195回   大分合同新聞 平成24年7月16日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(22)修正版
 われわれのいわゆる常識的な考えは、仏教の智慧の眼で見ると、「迷っている」と見えるのです。それはどうしてでしょう。
 私の周囲に起こってくるいろいろな事象に、大事なものと、大事でないものの区別が分からないと、全ての物事に対して自分にとって都合がいいように、「思い」や「欲」が満たされることを考えていきます。そして思い通りにしようと努力して、その結果に一喜一憂し、「欲」と「思い」に振り回されて、迷いを繰り返してしまうのです。
 自分の行動を起こさせしめている自分の心の元を考えてみてください。その元になるのは、自分の「思い」と「欲」ではないでしょうか。それらこそ仏教が教える煩悩に汚染されているのです。
 自分の思いや考えはまともであり、常識的だと考えています(我見(がけん))。自分の考えを中心に考えていけばよい(仏教の智慧を考慮に入れない我痴(がち))。自分の「思い」や「欲」を大事に考えていく生き方は、他人と比較して、すぐに優越感・劣等感や勝ち・負けの心を引き起こすのです(我慢)。そして自分は理性的で知性的に考え、振る舞っていると思っても、その中にわが身がかわいいというエゴイズムの心が交じって判断をゆがめるのです(我愛)。
 迷っている考えを「惑」といいます。「惑」の考えで行動(業という)を進めると、結果として「思うようにならない」となり、それが「苦」をもたらすのです。そこに惑・業・苦の悪循環が始まります。釈尊の教える「人生苦なり」という言葉につながることになります。
 そういうと反論して、「私の人生は楽しいことばかりです」という人がいらっしゃるかも知れませんね。それは素晴らしいことです。でも願い事のかなった天国から落ちる苦しみは地獄の苦の16倍と教えられています。そうならないことを願ってはいますが……。

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