「今を生きる」第197回   大分合同新聞 平成24年8月20日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(24)修正版
 生きることの意味を考えるとき、日常での自分の行動全般を「(人生の)目的」のような位置づけに考えているか、それとも将来の目的のための手段・方法・道具であるような受け取り方での取り組みとしているかによって、生きることの意味付けが大きく違ってきます。
 この世間では生きるためにお金は大切なものですから、お金を稼ぐための仕事だという意味付けが多くなるでしょう。そうすると、お金を稼ぐことが目的になり、仕事は手段・方法の位置になります。自分の行動や仕事を目的の位置で考えるか、手段、方法の位置で取り組むかによって、われわれの心に与える影響は大きな差が出てくるようです。
 確かに、現代社会は工業の高度化、複雑化で分業が進み、自分の従事する仕事が時には、全体の動きや流れが分からない部分(部品)を扱う仕事という場合も増えてきています。そのため、自分の従事する仕事の、この社会全体の中で有意義な役割、使命を持てるような位置付けを考えることは難しくなっています。
 仏教の智慧(仏智)で見る視点では、子どもには子どもの役割があり、30歳では30歳の役割、60歳では60歳の役割、寝たきりになったら寝たきりの人の役割があると教えてくれます。世間の知恵では物を生産する、お金を稼ぐということに関心が向きやすいのですが、仏智では「存在する」こと自体で果たす仕事、使命、役割があると教えるのです。しかし、煩悩や欲に汚染されたわれわれの眼には「存在している」ということは当たり前の事と思えて、そのことに意味を見いだすことは難しいようです。
 仕事をすることが、社会の中で役割があるとか、そのことで喜んでくれる人がいるというような意味付けを伴わないと、その仕事を継続するということは、本人にとって虚(むな)しさにつながる可能性があります。

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