「今を生きる」第198回   大分合同新聞 平成24年8月27日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(25)
 現代人は「何のために毎日、働いているのか」と尋ねられたら、どう答えるでしょうか。
 社会の仕組みの中で、それなりの地位、役割や職分を得て仕事をしています。それはいったい何のためにやっていると考えるのでしょうか。 生活のため、少しでも生活を良くするためでしょうか。食べていけさえすればよいということでしょうか。
 生業(なりわい)とは、生活のため、暮らしを立てるための職業を言います。食べるため、生きるための働き(仕事)を生業というならば、スリや泥棒をしていても労働か……という問題が出るでしょう。
 「職」という言葉は、職分という、持ち分ということを意味します。それぞれの分担という意味です。天職という言葉は天から与えられた持ち分、職分ということです。この世に生きているかぎりは、それぞれ自分自身で、家庭や職場、地域社会で責任分担をしなければならないというので、その働くことを「職業」と呼ぶのです。
 仏教ではわれわれの人生において、労働はいかなる意味を持っていると教えているでしょうか。仏教の最高の理を説いているとされる『法華経』の言葉を受け取った中国の僧が「仏の心を受け取ってなす、一切世間の治生産業(社会活動)は皆、仏道修行であり、信心の実践の場である」という趣旨を言われています。それを受けて日本の仏教徒は、仏の心を持って取り組む世俗の事、経済的行為は、みな真実にかなうものであると受け取って、身体を労する勤労に、特に神聖な意義を認めて、真面目に取り組んできた歴史があります。
 法然上人は仏の心を受けとる念仏が大事だから、「念仏しやすいように世間(家庭を含む)の仕事に取り組みなさい」と言われました。仕事の内容については言及していません。しかし、仏教の戒律(不殺生・不偸盗(ふちゅうとう)など)に準じた仕事であるべきということは前提にあると思われます。

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