「今を生きる」第201回   大分合同新聞 平成24年10月1日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(28)
 近世における臨済宗の僧、白隠は「世俗の生活のなかにも禅を生かすべきである」として「日常生活の全てが仏道修行である」言われ、禅僧・鈴木正三は著書の中で、それぞれ各自の職業に従事することに絶対的意義を見出すことの大切さを説かれているようです。
 言い換えると、われわれが従事する職業が、時代性、社会性、家庭状況から与えられた仕事、私に与えられた役割、使命といった目的であるかのように取り組むことができるか、それとも、ある目的のための手段や方法のような受けとりでなされるかということです。
 医療界で出会った先輩に仕事に生きがいを感じて取り組まれた人は少なくありません。病気を治療する仕事で患者に喜んでもらえるという恵まれた場であったということが、やりがいを感じられたのでしょう。しかし、仏教の教える心の内面の充実に結び付くものであったか疑問が残ります。
 なぜならば、それらの人々の言動や対話から知られる内面性は、現代を生きる一般の人達と同じで精神的な“足るを知る世界”を生きているように思えないことが多いからです。他との比較の上で満足を感じるというのは本物でない、相対的な頼りないものだと仏教は教えます。条件次第(他と比べること)では不足不満を持つ在り方(意識、無意識を問わず)を仏教では「餓鬼」と表現するのです。
 仏教の教える“足るを知る世界”は餓鬼根性を満たして「知足」を得ようとしても無理です。質的に違うのです。餓鬼意識の延長線上にはないのです。餓鬼性を超えた世界です。
 仏教の智慧(ちえ)を「真(まこと)」とも表現します。それは私の虚偽性、迷いの姿(餓鬼性)を知らせるという働きにおいて真だからです。虚偽と真実は対になっています。虚偽がなければ真実はないのです。私の迷いの姿が知らされたということにおいて「真実」が働いていたということです。
 仏智は「私が迷いを生きている」という私の目覚めにおいて働いているということです。

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