「今を生きる」第203回 大分合同新聞 平成24年10月29日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(30)
「働く」ということ考えると、人間のみが果たし得る行為が「勤労」であります。 動物は本能のままに反応的に動いているだけで労働とは言わないでしょう。
ある僧侶が「私事で恐縮ですが、私の母親は住職を五十一歳で亡くし、女手一つで畑仕事、山仕事と働き続けて六人の子供を育て、八十一歳で亡くなるまで汗を流し続けてくれました。その母親の節くれたしわだらけの手を握り、最後の別れをしたとき、私が今日あるのは母親のこの手にあったのかと気づき、深く『勤労』という言葉の重さが身にしみて感じられたのであります。家族や社会の多くの人びとや、天地から受ける恩恵に報ゆるために、人間として尽くさぬばならぬ務めがあると考え、実行しようとする心こそ、勤労感謝の心であり、流れる汗を真に味わえる生き方を大切にしていきたい」と発言されています。
仏教の智慧の眼で見ると、私という存在と私の周囲の事象の密接な関係性を大事にします。「見える世界は見えない世界によって支えられている」、ということ、すなわち、現象として見え、認識できる物事は、その背後に時間的・空間的に無数の事象によって支えられているのです。
英国の詩人テニソンの言葉に「自分はこれまで出会ってきたもの全ての部分である」があるそうです。即物的にいうと「自分はこれまで口にしてきたもの全ての一部である」とも言えるでしょう。私は食物だけでなく、夢や希望を生きる糧にしてきた、それ以上に親しい人の思いや、愛情を食べてきたのです。
客観的に認知される世界だけではなく、見えない世界をも含めて密接な関係性にあるということが仏教の智慧の視点ではうなずけるのです。日本語の「もったいない」「おかげさま」はそのことが日本の文化にまでなっていることを示しています。生かされていることを感得できるものは、そこに生きることで果たす「役割」に気づき、目覚めが展開するでしょう。 |