「今を生きる」第206回   大分合同新聞 平成25年1月7日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(33)
 日本の年末年始はクリスマスにまつわる行事、除夜の鐘、神社仏閣への初詣などと宗教絡みの行事が日本の国民的行動になったかのごとくです。仏教に関係する除夜の鐘は今のところ商業と結びつきようがありませんが、他の二つは明治時代以降の商業主義の所産であることは歴史的に証明されています。皆がするから、皆が行くからという世間の目や動向を気にする世俗性と、コマーシャリズムが結びつき、それに宗教的な節操のなさが結びついた結果だと思われます。
 哲学・宗教というと、すぐ堅苦しい難解なものだと考えがちですが、自分の周囲の状況把握をどう認識して、それにどう対応しようとするのかの判断基準を課題とするのが哲学・宗教と言われているものです。ほとんどの人が意識しているかどうかは分かりませんが哲学・宗教を持っているのです。無宗教という人の多くは、特定の宗派に属してないかもしれませんが、自分の頭、即ち理知分別を物事の把握・認識する拠(よ)り所として、その判断を信念として生きているのです。
 頼りにしている理性・知性・分別は、物事を本当に正しく判断しているでしょうか。初詣に行って祈願した「無病息災、家内安全、商売繁盛、願い事成就」が運よく成就したとしたとき、例えば志望大学受験で合格祈願をして、首尾よく合格したとします。その合格は祈願した神様のお陰でしょうか、あなたの努力の成果でしょうか。それとも指導してくれた教師、勉強の環境を整えて協力してくれた家族のおかげでしょうか。
 周りの状況が整ったとしても、自分の受験勉強の頑張りが決定的な要素だと考えがちであります。そして「私が頑張って勉強したから合格できた」と思うでしょう。しかし、それが全体の相を見ていることなのでしょうか。年をとって見えてくるのは、若気の至りであった自分の考えの傲慢(ごうまん)さであり、懺悔(さんげ)せずにはおれません。
 特定の宗教を信仰していません、無宗教ですという多くの日本人は自分の知性・理性を拠り所として生きています。これは無宗教ではなく、いわゆる理知主義を宗教として生きているということです。これが一般の人にはなかなか分からないようです。

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