「今を生きる」第208回   大分合同新聞 平成25年2月4日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(35)
 日本の仏教文化を考えるとき、国民の宗教に対する認識度の大きなばらつきがあります。外国から日本は仏教の国といわれていますが、厳密にいうと、仏教を生きる依り所にしている日本人が人口の1%はいないのではないかと思います。こういう社会を世俗化した社会ということができます。
 世俗化とは、人々の関心が経済、快適さ、面白さ、楽しさ、健康などを中心にしていることをいいます。ある哲学者は、それを日常性といって、それはあたかも「市場に群がるハエ」のようなものと表現したと聞いています。公衆衛生の環境の整備されていなかった昭和30年代までのハエの多かった時代を経験した世代には「なるほど」とうなずけるでしょう。
 人間社会でいうと、お金のこと、男女のスキャンダル、人間関係のもめ事、などなどに興味本位で群がる世俗的な人間の在り方と示しています。そういう情報であふれている週刊誌のたぐいが、コンビニエンスストアの本のコーナーや書店の店頭に多数並んでいます。そういう日常性に関心を示す人の世の中の状況把握と認識、そして生きる姿勢は、「生きているうちが華だ」、「命あっての物種」、「生きているうちに、利用できるものは何でも利用して、人生を楽しまなければ損だ」に近いものが多いと思われます。
 私も仏教の智慧の世界に出遇うまでは、本音でそう思っていました。今もそうですが、本当に俗っぽい私であると仏の智慧に照らし出されて知らされることです。
 世俗的な価値観、人生観を持っている人間は、生きている時間を延ばすことを価値あるものと考えていくことになります。特に順境のときは「長生きしたい。80歳、90歳までも……」となります。しかし、一転して逆境になると「こんなに苦悩するんだったら、早く死んで楽になりたい」とも言うようになります。
 建前では「生命(いのち)が大事だ」と言いながら、生命より自分の「思い」を最優先することになっていくのです。理知分別の「思い」は、自分の拠り所の生命よりも自分の思いを優先する傾向があります。そのことを仏教では「迷っている」と指摘します。

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