「今を生きる」第212回   大分合同新聞 平成25年4月1日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(39)
 私の伯父夫婦が現在二人揃って90歳を超えて、老老介護が自宅では難しくなり,介護型病棟に入院して世話を受けています。主治医としてかかわっていますが、伯父夫婦の場合は他の患者よりは人間・人生の全体像が少しは推測がつきます。それは伯父夫婦の家庭事情、家族構成、職歴など知っており、私自身がいろいろとお世話になったという事情もあり、縁が深いからです。そういうような状況把握を他の患者の場合にできるかというと不可能でしょう。
 私自身の生まれ育った宇佐市であっても、患者の住所からその地域はイメージできても、患者および家族との対話による病歴聴取からは、患者のたどってきた人生、日常生活の様子、家族関係までを把握することは難しいでしょう。患者に寄り添う医療・看護・介護を目指すためには、医療関係者と患者・家族との密なる対話による相互理解が必要です。
 患者の全体像を病状を含めて把握・認識しようとするとき、医療と同じように計算的思考でとらえようとするか、仏教文化のように全体的思考の受け取りで把握するかということになります。
 身体状況は客観的に具体的な症状などから全身状態の把握に努めますが、同時に患者のたどってきたであろう人生、患者を取り巻く家族を含めた人間関係、周囲の状況を把握しようとしますが、これらは患者の治療・看護・介護的な面の視点であり、主治医として管理的な思考になってしまいます。知識と経験を総動員して考えるのですが、分別の思考の限界があります。
 現実の医療現場では科学的な思考、すなわち計算的思考で患者の全体像の把握に努めていくしかないでしょう。医療現場も救急救命の場、外来診察の場、慢性期療養の場などで求められる内容が違ってきますが、計算的思考での把握では全体的思考になってないという自覚の謙虚さが求められるのです。

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