「今を生きる」第213回   大分合同新聞 平成25年4月15日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(40)
 科学的、合理的な思考は計算的思考と言われるのです。日常生活でお店に行けば、品物の野菜が新しいか・古いか、おいしいか・そうでもないか、値段が安いか・高い、などなどを計算的に思考しなければ生活できません。そこには日常生活を管理する思考、支配する思考へと展開するのは自然なことです。
 医学も人体の構造、病気の病態、治療方法の知識を集積して教育がなされています。身体や病気のからくりを学ぶのです。それはまさに計算的思考といえるものです。医療の世界では医学知識の専門家の医師が病気の診断、治療について患者よりは格段に知識量が違い、患者の全身管理の方法を学ぶので、いつの間にか患者のことを十分に把握できている、転じて患者のことは分かっていると傲慢(ごうまん)になりやすのです。
 よく考えたら自分のことも良くわかってないのに他人のことが分かるはずがありません。分かっているのは、医学的な全身管理であって、それは患者のことが全部分かっているのではないのです。
 国民の約8割が医療機関で亡くなり、病院はまさに老病死の現場です。全人的課題の老病死に直面する場で、医学的な思考の対処だけで十分に対応できているのでしょうか。宗教教育をほとんど受けてない日本の医療関係者は、科学的合理主義の思考で老病死に対応できている、医療現場でなされている医療的対応以上にする必要はないと判断している可能性が高いのです。
 「人間とは?」、「人生とは?」という課題は、未知なる部分が多すぎて、分別の認識を超えた領域です。計算的思考で管理・支配する方向性では全体を把握できないようです。
 仏の智慧に照らされる時、人間に生まれた意味、生きることの意味、生きることで果たす使命・役割・仕事への気づき、そして死んでいくことは「仏さんへお任せ」の目覚めに導かれるのです。老病死に直面した人間の全体をお世話するという考えでは、仏教的(宗教的)な配慮も場合によれば必要であるという視点が望ましいのではないかと考えるのです。当然患者の求めに応じてであり、宗教の押し売りになってはいけませんが。

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