「今を生きる」第215回   大分合同新聞 平成25年5月13日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(42)
 「医師から余命告知をされた母親が精神不安定になり、十分ながん治療を受けられず死亡した」として、女性の遺族から徳島大学病院に損害賠償を求める訴訟を徳島地方裁判所に起こしたとの報道が今年の3月初めにありました。「余命数カ月」と診断され、告知された70歳代の女性が精神的に不安定になり、通院で治療を続けたものの薬を飲まなくなったりして、十分ながん治療を受けられず、一年後に死亡したとのことです。
 報道された内容から思われることは、病名告知と余命告知は内容が違っていて、病名を告げても余命を告げることはしないことが多いのに……、ということです。それは医師でも余命を正確に予測することは難しいからです。
 患者に正確な病気の情報を知らせるとき、その受け取りは個人ごとにさまざまで、今後の予定を立てる上で、ぜひ知りたいという人と、悪い情報はできるだけ聞きたくないという人に分かれるでしょう。その情報を受け取った本人がどういう反応(精神不安定やうつ状態)を起こすかまでは、医療者には予測がつきません。
 仏教文化はいかなる状況、いかなる現実に出会っても、私が引き受けていくこの現実は、仏よりいただいた仕事、役割、使命として取り組む主体性を育ててくれるものです。
 無病息災、家内安全、願い事成就をお願いするものは仏教ではないようです。仏の目覚め、気づき、悟りの世界では、世俗のわれわれの願い、思いは智慧(ちえ)によって見直してみれば、我愛、我欲、我見等の煩悩で汚染されており、ないものねだりや、他人を傷つけたり、思いや欲に埋没して周りが見えなくなる流転を繰り返すと教えられています。世俗の願い事は、結果として迷いを繰り返して苦悩を免れないからです。
 仏教の智慧は、都合の悪い現実をも、私を人間として育ててくれる貴重なご縁であったと善に転じて、たくましく人生を生き抜く道へと導いてくれるでしょう。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.