「今を生きる」第218回   大分合同新聞 平成25年7月1日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(45)
 われわれの日常生活では、多くの植物・動物の「いのち」をいただいて生かされているという事実がありますが、おいしさを追い求める食通やグルメになってしまうと、それらの恩恵を忘れていくように思われます。自分の内臓や手足、腰によって生かされている、支えられていることも当たり前にして、調子がちょっとでも悪いと、腰が痛い、膝が痛いと、悪い所探しをするのです。そして私の分別は、元気な若い頃と比べて悪い所を探すのがうまいのです。
 健康診断のコメントも、医師は病気の見落としを心配して、ほんのわずかな異常も漏らさず指摘します。まさに満点の健康、完璧な検査値を目指しているのです。
 例えば肝臓が百点満点の健康だとしても、われわれが生きるために必要な機能はその30%の働きがあれば天寿を全うできるといわれています。後の70%は余力としてあるということです。生体臓器移植で肝臓の一部を移植しても、ドナー、レシーピエント共に生きてゆけるということです。
 われわれが医療に期待することは、病気や傷害での生活の不自由さや苦痛からの解放と長生きができることだと思います。そうだとするならば、満点の健康や完璧な検査値でなくても良いことになるのです。
 高血圧症の通院治療を受けている患者で、日頃は血圧を良好に管理できているのですが、ある時、自宅での測定値が150を超えていために「自覚症状の異常はなかったが、血圧の高値を非常に心配した」と言われるのです。私の説明不足があったのでしょうが、血圧の変動すること、高血圧は何のために治療するのか、心配しなければならない血圧のレベルなどを説明する必要を強く感じました。
 医療は「健康で長生き」を目標としていますが、法話に来られていた一見健康そうで、長生きの実現できている75歳の男性が「今、生きがいを探しています」という発言をされました。豊かで生きがいのある人生こそがわれわれの目的ではないでしょうか。

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