「今を生きる」第221回   大分合同新聞 平成25年8月19日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(48)
 仏教文化を知るまでは、現代の科学的な思考で何の不自由はない、科学が進歩すれば未知の領域は次から次にと解明されて、宇宙全体の出来事、現象は全てはっきりと分かるようになると思い込んでいました。人間の英知で不可能なことはない。今、難しくとも未来には必ず分かっていくはずだ、それが人間の思考、知恵というものだ、という思いを大学生の時まで持っていました。
 今から考えると、それらは全くの科学信仰でした。しかし、それが現代を生きる多くの日本人の発想ではないでしょうか。仏教文化を知るようになると、科学信仰が盲信・狂信の危険を伴っていることを知るようになりました。
 科学の発達は、現代のわれわれの日常生活に多くの恩恵をもたらしました。しかし、人間の理性、知性は物事や現象のからくりを解明するには大きな力を発揮しますが、そのことが人間社会にとって良いことか悪いことかの判断においては力を発揮することは難しいことを、人間の歴史が教えてくれます。多くの研究者、科学者は課題の解明の面白さに魅せられて先陣争いをしています。しかし、科学の発達が社会や地球全体に及ぼす影響については関心が薄いようです。
 仏教は人間の理性、知性が煩悩に汚染されていることを見抜かれて、いわゆる知識人の理知分別の傲慢(ごうまん)さに陥ることを危惧しているのです。そして煩悩の汚染に気づきかせ、より理性的、知性的になる道を教えているのです。
 科学的な知見で、生命現象のからくりが分かることによって、少量でも生命に猛毒となる物質が多く見つかっています。また多くの生命を瞬時に殺傷する武器も作ってきました。現在も多くの科学者が最先端の課題に取り組んでいます。
 科学の世界は客観性があり、中立性があっても、それを使う人間の分別が煩悩に汚染されているから、その使い方によって、非常に危険な結果をもたらす可能性を秘めています。サリンが、原爆が、原子力発電が、医学による生命操作が……。
 それにもかかわらず、それらを扱う当事者の分別の思考は、「間違いない」「正しいことをしている」なのです。ましてや、世界平和のために、人々を救うためにと確信を持って取り組んでいるのですから。

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