「今を生きる」第227回   大分合同新聞 平成25年11月18日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(54)
 約170年前、頼山陽と親交のあった雲華(うんげ)という僧が中津の正行寺に居られました。頼山陽は孔子と釈迦が相撲を取って、釈迦が孔子に投げ飛ばされ、倒れて笑っている絵を描いて、雲華に讃(さん)を書いてくれと依頼したといいます。
 頼山陽は、釈迦より孔子の考えの方が勝っていると暗に示そうと絵に描いたと思われます。雲華はしばらく考えて「孔子三世を知らず、釈迦転倒してこれを笑う」と書かれたといいます。孔子の論語は主にこの世での道を説き、釈迦は過去現在未来の三世での救いの道を説いたということです。
 曇鸞(どんらん)という僧に「夏に鳴くセミは夏に生まれて活動するから、夏の事をよく知っているように思われるが、春、秋、冬を知っていることで、初めて夏のことがよく分かるのである。だから夏のセミは夏のことがよく分かってない」という趣旨の文章があります。
 医療文化の背後には「死んでしまえばおしまい」「命あっての物種」という考えがあり、医療は生きている時間を延ばす、救命、延命に一生懸命に取り組むのです。一方仏教文化はこの世を含んで三世での救いの道を教えています。
 仏教は「今、ここ」での救いを教えると同時に、この世に捉われない、三世を見通した道を示します。
 この世が全てだという考えは、われわれには納得しやすい考えですが、この世を超えた視点があって初めてこの世のことがよく分かるのかもしれません。
 この世のことは一番分かっていると言いたいのですが、仏教の教える考え方を学んでいくと、この世のことを分かっているつもりの理知分別の発想の表面的、近視眼的であることを知らされるのです。
 釈尊の悟り、目覚めとは分別の発想を超えた視点だったのです。だから「生死を超える」という表現がなされるのです。「人間とは?」「人生とは?」を含めたこの世のあり方をよく理解するためには、目覚めの仏教、仏の智慧(ちえ)が大事であるということです。医療文化を底辺で支えている、分別を超えた仏教文化に関心を持ってもらいたい理由です。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.