「今を生きる」第229回   大分合同新聞 平成25年12月16日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(56)
 ある医師から、「神経難病での病状が進み、死に向かっているが、もう治療方法がない患者家族にどう対応すればよいのだろうか」と問われました。症状を緩和する対症療法しかできない状態だといいます。医療の背景にある「死んでしまえばおしまい」「命あっての物種」という発想では、死は免れない状況への対応は困難でしょう。
 有名なキサーゴータミーの話があります。彼女はようやく歩きができるようになったばかりの一人息子を失い、悲しみに打ちひしがれます。彼女は、息子を生き返らせ、治す薬を求めて釈尊のもとを訪ねます。
 釈尊は一人も死人が出たことのない家から白いケシの実をもらってくるようにと言います。町中の家々を尋ねた彼女は、「ああ、なんと恐ろしいこと。私は今まで、自分の子供だけが死んだのだと思っていたのだわ。でもどうでしょう。町中を歩いみると、死者のほうが生きている人よりずっと多い」と、死はどこの家にもあることに気づかされたのです。
 そこで釈尊が彼女に、「子供や家畜、財産に気を奪われて、とらわれる人を死王はさらいゆく、眠りに沈む村々を大洪水がのむように」と詩をうたいました。
 赤ん坊が生まれる時、ほとんどの人がその誕生を祝います。しかし、人間に生まれるということは「死す身として誕生した」ということです。われわれは局所にとらわれて、全体像が見えてないのです。死が、生きる者の逃れられない定めであることを教えられた彼女は、出家して生死流転の苦しみの世界を超えた、仏の悟りの世界を求めて歩み始めたのです。
 尼僧となった彼女に、釈尊は「不死の境地を見ることなしに100年間も生きるより、たとえ刹那の生であれ不死の境地を見られればこれより勝ることはない」と詩を贈られたといいます。仏教は分別の延長線上ではない、気付き目覚めの世界で人を救うのです。

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