「今を生きる」第231回   大分合同新聞 平成26年1月13日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(58)
 世間でいう信心は「私は仏教を信じています」という発想です。私が主体で仏教が信ずる対象という考え方です。この発想で宗教を考えている間は、「目覚め」や「悟り」を大事する「仏教、宗教」は受け取れないでしょう。宗教でいう「信じる」という意味は、「相手がいかなる状況にあっても、許す(受け取める)」という意味です。
 私が息子に「あなたのことを信じているからね」というときは、少し押し付けの意味も含んで「人(親を含む)に迷惑を掛けるようなことはするな」という意味でしょう。もし「親に迷惑をかけるようなことがあったら、許さんぞ」という心根があるのです。それは「信じている」と言いながら「信じてない」ことを示しています。
 私の自我意識は世俗の「善悪」「損得」「勝ち負け」のモノサシを思考の背後に働かせているので、身に迫る「悪、損、負け」を受け止めることはできないでしょう。われわれの自我意識は対象者(物)を徹底的に「信じる」ことはできないのです。対象が私にとって都合が悪くなれば、いつでも縁を切る心根を持っているのです。その自我意識が無理やりに信じ込むということで生活すると、必ず狂信、妄信の危険を持つことになります。過去の宗教がらみの事件がそのことを示しています。
 仏教の智慧はその自我意識のあり方を問題にするのです。自分の肉眼で直接に自分の目を見ることはできないと同じように、自我意識は自我意識を対象に考えることができません。自我意識の殻を超えた「悟り」、「目覚め」、「仏の智慧」の視点で自我意識の殻の問題点を知らされるとき、「仏の言っていることは『ご指摘の通りでございます。参った!』」というような受け取りになって、自我意識の在り方の問題点(局所的、刹那的、煩悩に汚染されていてゆがめられている)を、驚きをもって知らされるのです。結果として懺悔(さんげ)と感謝を伴うことになります。
 仏の智慧を身体全体で納得して受け取れるとき、自我意識を翻して仏の智慧に順じて行こうと転じられ、自我の執(とら)われから解放されるのです。そこに救いの世界が展開します。

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