「今を生きる」第232回   大分合同新聞 平成26年1月27日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(59)
 われわれの自我意識が考える「救い」と、仏教のいう「救い」とは質の違いがあるのです。自我の救いは、差し迫った現実の中で、困ったこと、都合の悪いこと、苦悩から逃れ、救われることを「救い」と考えます。それだと救いは自分の努力や精進に影響されるが、何となく運次第ということになります。それだから皆が苦労しているのです。
 例えば健診で便の潜血が陽性であったために内視鏡検査をして大腸がんと診断されたとします。自覚症状はないのにがんと言われて戸惑います。「困ったなあ」「何で私が癌に」といろいろ苦しみ悩みます。医療ではその苦悩を救うために外科手術をしたとします。手術がうまくいって退院という時には主治医に「命を救ってくれてありがとうございました」と感謝するでしょう。
 がんは確かに治癒したとしても、必ず将来、老病死は迫ってきます。人生全体を見通すとき、誰も老病死を逃れることはできません。仏教は、あなたが老いによってしぼみ、病によって傷つき、死によって滅びる生命を生きているから苦悩するのですよと教えてくれます。仏教は、老いによってしぼまない、病によって傷つかない、死によって滅びないいのち(無量寿)を生きることが大事なのですよと、われわれの眼をさまさせるのです。
 法話を聞いて仏の智慧をいただき目覚めるとき、私の視点は未来の死を心配するとり越し苦労ではなく、今、ここに生かされていることの「あること難し」に感動して、生かされていることに完全燃焼しよう、与えられた役割を精一杯果たして生きていこうとなります。自分の足元を、あるがままをあるがままに見つめ、生かされていることで果たす使命を生きる者に導くのが仏の智慧の眼です。
 その結果、いかなる状況に直面しても、仏にお任せ(智慧をいただいて)して、未練なく生ききるように導かれるのです。未練は小賢しく「善悪」、「損得」、「勝ち負け」に振り回されて完全燃焼できない者の感性です。

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