「今を生きる」第233回   大分合同新聞 平成26年2月10日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(60)
 前回の内容の「老いによってしぼみ、病によって傷つき、死によって滅びる生命を生きる」という言葉に、多くの読者はそれ以外には考えられないと言うでしょう。確かに生物学的には間違ったことを言ってはいないでしょう。生物学的な生命としての人体は約60兆個の細胞で構成され、維持されています。そして他の命ある生物を食べなければ生命を維持できません。しかし、その生命も残念ながら老病死を免れることはできないのです。
 仏教では食べることに関して、単に食物を食べているだけでなく、私のために料理を作ってくれた人がいるなど周囲の心配りがあり、一緒に食べてくれる家族や心を通じる友人との楽しく安心感のある雰囲気、そのような中で得られる将来への夢や希望、生きる意欲なども一緒に頂だいていることに気付くことを教えてくれます。
 専門家の栄養士が種々の食べ物を分析的に調べて、炭水化物、脂肪、タンパク質などの成分として示すことはできますが、食べるに当たっての前記の種々の状況や心のあり方を客観的に形や数字で示そうとすることは困難です。
 私が今、ここで生きていくに当たって、その背後には私一人のためになされた多くの時間的・空間的な要素(私のためになされたご苦労、ご配慮、歴史、周囲の状況、環境など)が宿されているのです。親や家族の願いを受けて育まれ、社会やよき師・友に守られ、教えられ、多くの衆生の縁によって教育を受け、経験を積み、生かされ、支えられているという基盤があるのです。
 そういう現前の事実を成り立たせている道理、法則を「法」と言い、そのはたらきの全てを分別では考えることができないので無量、無限といい、無量寿(仏)と表現するのです。その全体像に気付き、目覚めさせるはたらきを浄土教では名号「南無阿弥陀仏」と表現しているのです。
 その心は「汝、小さな殻(分別の殻)を出て、大きな世界(仏の世界)を生きよ」ということです。仏の智慧をいただいて生きようとする者は分別の迷いを超えて、「老いによってしぼまず、病によって傷つかず、死によって滅びない無量寿を生きる」存在へと導かれます。

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