「今を生きる」第234回   大分合同新聞 平成26年2月24日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(61)
 医師として医療の世界で仕事をしていると、人間のことが分かったような傲慢(ごうまん)さに陥りやすのです。医療の領域で長年経験を積んで、生命(生命現象)のたくましさを感じるとともに、脆弱(ぜいじゃく)性を目の当たりにするとき、意識を含めて生命現象の未知なるものの多さと、不思議さを感ぜざるを得ません。
 戦後の日本の歩みを見て来た者には科学的思考の成功例を経験しているために、その思考の問題点に気づきにくいのです。しかし、一歩先に智慧に触れたよき師・友は、分別をよりどころに生きる私に、「汝(なんじ)、小さな殻(分別)を出て、大きな世界(仏の智慧)を生きよ」と呼び掛けてくれるのです。
 科学が万能だと思っているかも知れないが、局所しか見てないのではないか、客観的な科学と言っているが、全体が見えていない、見落としているところがたくさんあるではないか。大きな世界に目を覚ませーと呼び覚まされるのです。
 仏の智慧(無量光)に照らされ、自分の理性・知性、分別の限界というか分際を知らされと、私の分別は狭い局所しか見てなかった、煩悩や善悪、損得、勝ち負けに振り回されていたと分別の限界、すなわち愚かさを知らされるのです。
 仏教を生きた人に「愚の自覚」を表現した人がたくさんいます。善導「我等愚痴身」、最澄「愚が中の極愚」、源信「予がごとき頑愚」、法然「愚痴の法然房」、親鸞「愚禿親鸞」、良寛「頑愚まことに比無し」、一茶「春立つや愚の上に又愚にかへる」などがあります。仏の智慧に照らされ、仏の智慧で見たときの自分の姿の必然の自覚でしょう。
 臨床の現場で出会う現在の高齢者は自分の思考に自信をもっているのでしょうが、話の内容は愚痴が多いのです。老病(死)を受容できず、廃品のように自分で自分をおとしめています。ある哲学者が「人生の最後の10―20年を廃品のように思わせる文明は挫折していることを示す」と言われています。科学的思考だけの人間の行き着く先を演じて見せてくれます。
 それらの事実は、仏教の智慧の大きな視点が、現代という時代に潜在的に求められていることを思わずにはいられません。

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