「今を生きる」第236回   大分合同新聞 平成26年3月24日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(63)
 「足るを知る者は未来の幸せを求めようとしない」、ということなら、人間の進歩発展はないではないですかと多くの読者は考えるでしょう。
 世俗の思考が全てだと考える者は「明るい未来」「将来の幸せや楽」を目指して努力精進するのが人間だと思っていることが多いようです。そして、「足るを知る」なんていうと、未来の目標に向かって頑張るという元気がなくなるではないかと危惧します。
 一般に、明るい未来に向かって頑張る意欲の原動力を人間の欲に置く思考は理解しやすいでしょう。そして仏教の智慧で「足るを知る」者は欲がなくなると思いがちですが、そうではないのです。生身を生きる限り欲は無くなりません。しかし、欲に振り回されることは少なくなります。自分の分際を仏の智慧で知らされた者は煩悩に振り回されることの少ない智慧を生きるように転じられます。煩悩を持ちながら仏の智慧を生きるような私に導かれるのです。言うならば、世俗の世界と仏の世界の二重国籍を生きる智慧を身につけるのです。
 その結果、人間としての欲を生きるだけでなく、仏の智慧に制御された欲を生きるようになり、同時に仏の世界の素晴らしさを多くの人に知ってほしい、分かってほしい、仏の道を一緒に歩きましょうと願いを生きるようになるのです。世俗の思考は仏の智慧と対立するように思うでしょうが、仏の智慧は世俗の世界と対立するのではなく、それを包含する世界と受け取ることができます。目覚める、超えるという表現をするのは、質が違う、次元が異なる思考であるからです。
 われわれの分別は自分では気付かない深層意識のところで煩悩に汚染されているのです。そのため私の眼は、自分にとって都合の良いことを取り集めて、都合の悪いことは排除したり、避けて逃げて、先送りして、小ざかしく幸せな人生を明日に期待して生きようとします。
 今、ここで生かされていることの幸せを感じる(知足)者は、明日の幸せを求める必要はありません。未来に幸せを求める者は今、心の中が不幸せだから幸せを求めようとするのです。

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