「今を生きる」第238回   大分合同新聞 平成26年4月21日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(65)
 人間の生老病死の四苦の解決に向けて対応する姿勢の違いが医療と仏教の間にはあるように思われます。
 医療は本来、病人を相手に始めたのですが、科学の進歩によって病気の解明が進み、細分化して、より詳しく取り組み、多くの疾病が治癒できるようになりました。生物学的な組織や臓器の状態を解明し、判断して、再統合すれば、人間の身体的な全体を管理支配できるようになると楽観していたのです。
 しかし、科学の計算的な思考は客観性を尊重するために白黒はっきりしないところ、形・数字で表現できない部分などを排除して考えます。客観性を尊重した医学の方法論では、心や意識の領域まで含めた人間全体像の把握には未解明な部分があまりにも多く、再統合しても人間全体の把握に不十分だということに気付き始めています。
 一方、仏教は智慧の視点では、人間の全体像を洞察していき、心や意識の領域の広く深いことに気付き、目覚めた先輩方の文化の蓄積が仏教として残されています。
 心の領域、精神文化では、先人の蓄積が多くあっても、誰もが生まれた時のゼロから出発するしかありません。先人の積み上げた文化(仏教を含む)も身体を通して体解することが求められる分野であるために、試行錯誤を繰り返しながら経験と学びで成熟していくしかありません。
 仏教の智慧は自分自身を含めた人間、および人生の全体像を見通す全体的な思考です。計算的思考の科学的思考をも思索の俎上(そじょう)に乗せていきます。世尊の悟り、智慧(世間の知恵ではない)がないことを明らかにします。その結果、私が理性と感性をよりどころに生きている姿を、煩悩に汚染されて感情に振り回され「愚かで、迷いを繰り返している」というのです。

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