「今を生きる」第241回   大分合同新聞 平成26年6月2日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(68)
 がんの病状が進み、死が近い状態となっても、頭はしっかりしていることがあります。身体的痛みの緩和が出来ている状態では、生きる意味や死への不安にまつわる訴えが出てきますが、医師にはそれらの訴えに対応することはむつかしいでしょう。
 必然的にそれ以上患者の心に寄り添うことは難しくなります。それは「死んでしまえばおしまい」、「命あっての物種」という価値観を多くの医師は生きているからです。
 知人の僧侶が「仏教はそういう状態であっても『人生を味わい直す機会がある』という心持で対応することが出来るのです」と教えてくれました。
 仏教の言葉に、「これからが、これまでを決める」というのがあります。これまでの過去の出来事はもう変えることはできません。その過去の事象を私の分別で見ていくと良かったり、悪かったりといろいろあります。しかし、現実の死に直面した時点から、私の思い(分別)で見直すと、輝いたり、良かった過去でも色あせていくのでしょう…。
 高齢の患者のよく発する言葉に「年を取って何もいいことはない…」という愚痴が何と多いことでしょうか。 病院に縁のない間は良かったのでしょう。しかし、理性的に老病死に直面している自分の現実を見つめた時、いろいろと後悔されるものや、未練に思われる事柄が思い出されるとするならば、それらは思うようにならなかった人生の悔しさ、恨みなど愚痴の種になるしかないのでしょう。
 しかし、仏教の智慧に照らされると、愚痴の種であったものが見直されて貴重な意味のあることに気付く、ご縁としての出来事であったと受け取れる変化が起こるというのです。それを「転悪成善」という言葉で表現しています。
 分別を180度転換させられる仏の世界に出会うと、感動と同時に考え方の見直しの転回が起こるのです。過去の失敗、人に言えないようなこと、怒り、腹立ちなどが仏教の智慧に照らされると、見直されてくるのです。
 あのつらかった事も仏教の目覚め、救いの世界に出会うための貴重なご縁であった。あの悲しいことが、あの不幸な出来事がなければ、仏法に出会えなかったと大きな転回が起こるのです。

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