「今を生きる」第242回   大分合同新聞 平成26年6月16日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(69)
 仏教でよく使われる「分別」という言葉の意味がよくわかるように説明してほしいという声を聞きました。辞書には「道理をよくわきまえていること。また、物事の善悪・損得などをよく考えること」とあり、言葉の用例として、「分別(ふんべつ)盛(ざか)り」「いろいろと経験を積んで知識もあり、世の中の道理がよく分かっている年ごろ。また、そのさまや、その人」と説明しています。世間の常識的には良い意味で使われています。
 「宇宙」とか「この世」というのは全体を示す言葉です。そこで生活する人間が外界を認識するとき、自分という認識は、自分と自分以外のものとを分けます。分けて考える思考を分別というのです。宇宙を人体の皮膚を境界として分けて、皮膚の内側を自分とし、皮膚の外側を自分以外のものと見るのです。
 このように分けて認識する思考方法が分別です。多くの知識を持ち、人生経験を積み、道理をわきまえて常識的な判断のできる人は分別のある人と世間では尊重されます。
 しかし、仏教ではこの分別に問題ありと指摘します。仏教の智慧は、われわれの思考様式の内実を見透かして問題点を教えてくれるのです。普段、私の思考の分別は、見る「私」と見られる「対象のもの」を別々のものであると考えます。これを対象化といいます。
 仏教はこの対象化を、人間の迷いのもとと指摘するのです。それは見る「私」や見られる「もの」は別々に独立してあるのではなく、宇宙中の存在は時間的空間的に関連性を持って存在しており、同時に諸行無常というように常に変化する在り方をしているというのです。
 そのために、見る「私」も、見られる「もの」も別々に存在するのではなく関係性を持つ存在として、あるがままをあるままに見ることが仏の智慧の正しい見方であると教えるのです。
 われわれの普通の思考や医療の基礎思考は客観性を尊重したものの見方を基盤にしているように思います。客観的に見ることが対象化ですから‥‥。仏教はなぜ迷いの見方だというのでしょうか。

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