「今を生きる」第244回   大分合同新聞 平成26年7月14日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(71)
 われわれがいくら理性的、知性的に振る舞っているつもりでも、仏教の智慧の視点からいうと、自我意識(理性・知性)は煩悩に汚染されていると指摘するのです。
 われわれが物事をいかに客観的に見て、中立的に判断しているつもりでも、自分の考え方に影響を受けており(我見)、他人と比較したり(我慢)、他人より自分の方がどうしてもかわいいと考えます(我愛)。
 それは自分と自分以外を分けて考える分別の思考、自分と自分以外のものが別々にあるように思うからです。
 確かに実感的にはそうですが、よく考えてみると、私という存在は生まれてから今まで、外から栄養、水分、空気、知識などを取り入れて現在の私があるのです。私は独立してあると思っていますが、宇宙中の物と密接な関係性で存在することが分かるでしょう。
 過去から未来への接点の今を、過去の積み重ねの現在を生きているのです。時間的・空間的に無量の因や縁が和合して私が存在していると仏教の「縁起の法」は教えてくれているのです。
 同時に「諸法無我」すべての存在は固定した存在はない、変わらない主体と呼ぶ「我」はない。「諸行無常」と、一切のものは時々刻々と変化して、変わらないものはないと教えてくれています。
 われわれの発想は固定した「私」があり、変わらない「常」なるものが存在すると考えています、そして楽しいことがあり、理想の世界があると思いたいのです。いや、あって欲しいのです。人間の発想からすると、存在してくれないと困るのです。
 変わらない私が存在すると考えると、いま、ここに元気でいることを当たり前にして、老化する私や消滅する私を考えると不安になるでしょう。
 さらに「私の物」にとらわれるのです。私の家族、お金、土地、地位、評判などに執着するのです。これらが私の悩みや苦しみの元凶であると仏は指摘します。
 われわれは指摘されたことはもっともであると思うのですが、それは変えられないし、それ以外は考えられないと仏の智慧に耳を貸そうとしないのです。

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