「今を生きる」第245回   大分合同新聞 平成26年7月28日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(72)
 われわれが仏の教えに耳を貸さない理由は、「自分の周りを見回しても、いろいろ考えても、仏教に関係なく幸せそうな人はたくさんいる」「世間的に幸福と思われる人たちも、仏教なんか関係ない生活をしている」という思いが強いからです。
 仏教がらみの人の方が、かえって陰気くさく、お寺にお参りしている人たち(高齢者が多い)が、元気で生き生きとしているように見えないという印象でしょうか。
 どう生きるかは一人一人のしのぎですから、自由で良いのですが2500年前のお釈迦様の時代から今日まで伝えられてきた仏教の智慧に触れないまま人生を終わるとしたら「もったいない」の一言に尽きます。
 仏教が教えるわれわれの思考の問題点は何かと問われたら(1)物事を認識するときに、煩悩に汚染された認識となることと(2)認識したものにとらわれる(振り回される)ことを私は指摘します。
 煩悩に汚染された認識とは(1)自分の理智分別による考え方が全てで、それ以外の発想があると思わない(2)自分の受け止め方を正しいと信じて疑わない(3)受け止めた内容を私と他人の比較の中で考えて、自分が優れていると思うときは慢心になり、劣っていると思うと心が揺れ動き、穏やかでない(4)物事の中立的な受け取りができずに、身びいきな判断になるーです。煩悩に汚染された見方は、あるがままをあるがままに見ることができないのです。
 歯が痛くなって、腰が痛くなって、ケガをしてなどと病気になってみて初めて、健康で平凡に生活して、過ごして居ることの「有ること難し」に気付けるのです。
 人がうらやむような生活環境に恵まれて(世間的には願い事のかなった天国)いても、しばらく生活すると、それ当たり前になります。仏教では「本座を楽しまず」といって、人間の理想がかなった天国の住人(天人)も退屈するようになると、天人五衰の一つとして教えています。

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