「今を生きる」第247回   大分合同新聞 平成26年9月1日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(74)
 お盆前後は広島・長崎原爆の日、お盆、第2次世界大戦の終戦記念日と亡くなられた人をしのぶ機会が多くありました。
 最近では日本人として生れた者の半分以上が80歳を越えて生きることができる時代を迎えました。多くの人は加齢現象に病を得て、老衰に近い、見た目には穏やかな死に方(痛みに対する緩和ケアも発達して、多くの痛みも対応可能になっている)をされる人が多くなっています。
 このように亡くなった人に対して「霊を慰める」「冥福を祈る」「故人の供養を…」「安らかに…」などの言い方をしますが、これは非業の死を遂げたような人に対する言葉であり、適切な表現ではないのではと考えます。
 これらの言葉をよく見ると、生き残っている人が亡き人を上から見下しているような表現になっているのではないでしょうか。生きている私は大丈夫だが、亡くなった人は不本意であったのではないか、悔しがっているかもしれない、迷って苦しんでいるかもしれない、闇夜にいるかもしれない、暗い世界であってもせめて幸(冥福)がありますように祈るという表現になっているからです。
 仏教文化風に表現すると、生身が尽きた時、煩悩が滅却されて、往生浄土の本懐を遂げて、成仏されたと見なします。仏になった存在は「まだ生き残っているわれわれが、迷いのこの世で悪戦苦闘して苦悩しているありさまを大悲されて、われわれに智慧と慈悲で、救いを実現しようと働かれている」と受け取ることができます。
 仏教では仏から頂いた使命・仕事を成し遂げたときに、仏の世界に往生すると教えてくれます。別の表現でいうと、「人生」という偉業を成し遂げた人間、完成した人間という心持です。そういう存在に対しては、この世で迷っているわれわれは教えを請うたり、尊敬するべき対象という心持で対応することが大切です。
 仏からわれわれを見ると「愚か」で「迷いを繰り返している」「闇の中にいる存在」です。迷いを超えた存在の亡き人、仏に対してわれわれが「慰める」「冥福を祈る」などはふさわしくありません。

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