「今を生きる」第248回   大分合同新聞 平成26年9月15日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(75)
 よき師を通して仏教に出遇うまでは念仏すなわち「南無阿弥陀仏」に対して偏見をもっていました。それは科学が発達してなかった古い時代の産物で、死ぬ間際の人が藁(わら)をもつかむ思いで救いを求めて、「南無阿弥陀仏」と念仏していると思っていました。
 仏教の教えに触れて学びをするうちに、自分の大きな無知と偏見を知らされました。「南無阿弥陀仏」はお釈迦さんの悟り、目覚めの内容を説いた仏説観無量寿経に説かれている悟りの内容として示された言葉でした。
 仏教が説かれた文献を、「経」「論」「釈」と分類して示され、釈迦が説かれたものが「経」、菩薩が説かれたものが「論」、仏・菩薩でない人が説かれたものが「釈」と呼ばれます。仏教では経論釈で権威と確かさに格段の差があります。「南無阿弥陀仏」はお経の中に示されたものです。
 お経の中で、後に阿弥陀仏になる法蔵菩薩の物語が神話風に説かれています。そこには菩薩が長年修行した功徳の全てを、仏の名前「南無阿弥陀仏」の中に込めて、迷える衆生を救う慈悲のはたらきを仏の智慧によって実現しようとして「南無阿弥陀仏」、念仏の相(すがた)になってわれわれに届けようとしてはたらいていることが説かれています。「友よ、小さなカラを出て、大きな世界を生きよ」と呼びかけ、私を呼び覚まし。仏の世界に呼び戻そうとされているのです。
 私より一歩先に仏教に出遇ったよき師・友が身柄全体で仏との出遇いを喜び、その感動を褒めたたえる念仏の声となって、われわれの目の前に現れているのです。
 私が念仏するとき、仏のはたらき(智慧と慈悲)の躍動する世界、浄土という場を心が感得するようになり、仏の教えやよき師・友を憶念するときを賜る。そしてその思いが念仏するたびに持続します。そして私が小ざかしさに振り回されていることに気付き、目覚め、生きる姿勢を正されるのです。そして圧倒的に大きな智慧(無量光)と慈悲(無量寿)のはたらきの場を生きる身に導かれ、摂取不捨の利益(生死を超える)を賜るのです。

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