「今を生きる」第250回   大分合同新聞 平成26年10月13日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(77)
 神社では元来、国家の安全や風雨順時、五穀豊穣(ほうじょう)など、公共性の強い祈願を主に行なってきました。その後個人的祈願もするようになり、現在は合格、安産、病気平癒、商売繁盛、寿命長遠、子孫繁栄など多種多様な祈願が神職によって行なわれています。
 仏教は本来、目覚め、悟り、智慧を教えるものです。しかし、お寺にお参りする人の大多数は世間的な幸福をお願いしていると思われます。神社仏閣といわれるように、お宮やお寺にお参りする人の情景を季節の折々に放送するマスコミの説明では、人間の世俗的な願いを「お願いしている」という趣旨の内容になっていることがほとんどです。
 医療文化も世俗の宗教文化も、共通していることは理知分別でしっかりと考えているということです。その心根は、神仏を利用してでも自分の世俗的な幸福、健康で長生きを実現したいという発想です。
 われわれの「よりよい生活」を邪魔するもろもろの事象は、その多くが科学の発達によって神仏に祈願しなくても実現してきました。苦しい時の神頼みはありますが、本音では神仏にお願いをしても、その効果はほとんど期待してないように思われます。全国の神社の初詣で、さい銭の平均額は150円だそうです。お願いの内容と釣り合っているでしょうか。
 民族宗教から世界宗教へと展開した仏教は「気付き、目覚め、悟り」という思索の深まりを持って、民族、国、時代を超えて広がっていきました。「気付き、目覚め、悟り」を仏教では智慧と表現します。
 われわれの目は外の事象しか見ることができませんが、仏の智慧は私の内側を見通す目で、内観とも言われます。そのために仏教の智慧は人間の「幸・不幸」を決めるのは私を取り巻く外側の事象ではなく、外側で私に起こったことを受け取る自分の内面の問題だと見破ったのです。
 「健康で長生き」をいくら祈願しても、老病につかまり、ついには死に、「不幸の完成」の結果になるからです。このことを理解しないと生老病死の四苦を超える仏教は受け取れないでしょう。

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