「今を生きる」第254回   大分合同新聞 平成26年12月8日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(81)
 仏の無量光(智慧)に照らされるとは、照らし育てられることです。法話を聞く、仏書を読む、よき師、よき友と話をする、等々を通して、仏の智慧と慈悲の限りない大きさの内容を知るようになり、同時に仏のはたらきを身に受けて生きている人(師、友)の人格性にも触れることで教化を受けることになります。
 そういうご縁に恵まれると「私を私以上にご存じの方がいた、私を私以上に大事にしようとする存在がいた」という直感みたいに、私を包み込む圧倒的に大きなはたらきを感得することに導かれるのです。
 仏の智慧に触れ、自分の小ざかしさの愚かさに気付く者は日常生活の中で、仏のはたらきを憶念(念仏)し、教え導かれ、教えに順じて生きていこうと転じられるのです。そして智慧の視点で、与えられた場で、与えられた役割・使命を、私の今、取り組むべき現実と引き受けて仕事に励むのです。そしてその成り行きは「仏様にお任せします」となり、その結果は「いかなる状況になろうとも私の責任として、念仏して背負っていきます」となるでしょう。その心意気を表現した道歌があります。
 「誠こめて放ちし矢なり念願の まとにあたるもあたらざらんも」(九条武子)
 われわれが仕事に取り組むとき、「誠を込めて、矢を放そう」として、自分の分別だけを頼りに、小ざかしく「一生懸命」になろうとすると順境のときは良いのですが、逆境のときは波風が立ち、誠を尽くそうとするのだが…、時代が悪かった、人が協力してくれない、金が足りない、などなど愚痴になり、持てる力を十分に発揮できないことになりがちです。
 仏の智慧に育てられ教えのごとく生きようと転じられると、順境・逆境関係なく私の周囲の諸々の状況は「私にピッタリの環境です、私を支え、教え、目覚めさせ、守り育てようとしている」と気付かされ、与えられた仕事を精一杯に励むのです。そして私を育ててくれた、親、ご縁のあった人たち、社会への報恩行として取り組むでしょう。愚痴を言いながら取り組むか、私に与えられた使命として励むか…、「今を生きる」その相(すがた)の輝きにきっと差が出るでしょう。

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