「今を生きる」第255回   大分合同新聞 平成26年12月22日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(82)
 仏におまかせしたら、仏教への盲信、狂信にならないのか心配をする人は多いでしょう。そのことへの示唆を与えるのが仏教を深く頂いた妙好人の言葉です。妙好人、才一(さいち)の自問自答の記録が残されています。
 「才一や、阿弥陀さまは、今どこにいらっしゃるのか」自分で自分に質問し、「今、ちょっとお留守でございます。ナマンダブ、ナンマンダブ」「あっ、阿弥陀さんは、今お帰りになりました。ナンマンダブ」という具合です。生身を持つ私の思考は世間的な分別を十二分にはたらかせながら生きることになるのですが、時々(念仏して憶念するとき)仏の智慧に照らされ、生きる姿勢を正されるのです。
 日常生活の思考のよりどころとなる理性知性は、普通はまず「それは本当だろうか」と疑うことから始まります。それは「渡る世間は鬼ばかり」という発想に近いものです。そのため100%お任せしますということは理知分別が許さないのです。
 しかし、その疑うところの理性知性分別の小ささ、内容の浅さ、思考の欠点、思考の非人情性などに目覚めるとき、人間の計らいの分際を仏智に照らされながら生きていこうと、両者の微妙なバランスの中で盲信、狂信の危険を避ける道を賜るのです。
 仏教の目指すものは、われわれの理知分別が煩悩で汚染されて、考え違いや迷いの判断をしている在り方に目覚めさせて、人間の計らいの愚かさを見つめながら、より理性的・知性的に生きる道を教えるものと受け取ることができます。
 われわれの生命は生物学的には自然に壊れていく性質(エントロピーの法則)を持っているために、壊れる前に自分で壊し、それを再合成するという際どいバランスの上に維持できています、いわば自転車操業を見えない内部で果たして、生命を保っているのです。
 仏教の縁起の法では、われわれの命は死に裏打ちされて生が成り立っていて、一枚の紙の表と裏の関係で分離できないのです。しかし、われわれは死を嫌い、元気な「生」だけを取ろうとしています。

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