「今を生きる」第259回   大分合同新聞 平成27年3月2日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(86)
 医療と仏教の協力関係の構築を考えていくとき、老・病・死を排除、ないし先送りしようとする医療の姿勢と、それを受け止めていこうとする仏教の姿勢の違いをどう調整するかが問題になるでしょう。
 仏教の思考では、人間として老・病・死は自然なことであり、仏教の智慧でそれを受容する方向で苦しみ悩みを超えようとしていきます。しかし。「治る病気は普通に治療をする」ことも含んでいるのです。
 「智慧で超える」という表現に大きな意味があります。人間であれば老いること、病むこと、死ぬことは避けられません。それらが自分に起こってくれば、淡々と対処して最善の医療知識・技術の治療を受けるのです。ただし、「老いるのは嫌だ」「病むのは困ったことだ」とその現実の受け止めにおいて「分別」や「感情」に流されるのではなく、智慧による冷静な態度で、「嫌だ」「困った」という感情や思いに振り回されることが少なくなるのです。そのことを老・病・死の受容と表現しているのです。
 現実に振り回されるかどうかは、われわれの分別や感情が煩悩にどれくらい汚染されているかどうかに大きく関係します。現実に直面して対応を考えるとき、善悪、損得、勝ち負けで考えるとしたら、それは理知分別が100%煩悩に汚染されています。
 同時に怒り、いらだち、ねたみなどの思いが湧いてきて、それこそ私の気持ちだと思って、次なる思いや動作に移るとしたら、その思いは100%煩悩に汚染されています。仏がわれわれを「煩悩具足の凡夫」と言い当てているのはこのことです。
 仏教の智慧で受け止めるとは、「仏さんだったらどう対応するだろうか」「この現実は私に何を教えようとしているのか」などと考えることです。感情に関しては、種々の気持ちが起こった次の一瞬に「感情の奴隷になるな」と念仏するのです。仏のお育てをいただいているうちに、感情が起こってから念仏するまでの時間が短くなってゆくのです。短くなると振り回されることが減っていきます。

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