「今を生きる」第260回   大分合同新聞 平成27年3月9日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(87)
 医療は「老・病・死」の現実を「若返る」「病を治癒させる」「不死ないし先送りする」ことを救いと考えて取り組んでいます。
 仏教の考えでも「老・病・死」の現実は、医療で対応できるものは医療者にお願いをします。決して治療を拒否するものではありません。老病死の現実を「一の矢」と言って、「縁次第では、いかなる状況も起こってくる」と教えています。
 仏教の救いは「二の矢を受けない」と表現します。医療で治療をしてもらって老病死の先送りはできても、一時的なものであって、結局は誰も逃れることはできません。老病死の現実にいざ直面したときの受け取り方を教えるのが仏教です。冷静に受け止めて、いかに処していくかをより理性的、より知性的に考えていくように導くのです。
 多くの人が初詣で神社仏閣に「無病息災」「家内安全」「願い事成就」をお願いするのは「一に矢」に相当するものを祈願しているのですが、いかんせん、人間の死亡率は百パーセントです。
 仏教に関して言えば、仏教寺院で「一の矢」に関しての願い事は「的外れ」なお願いということでしょう。老病(死)の現実を受け入れて、どう対処するかが仏教の智慧の働き場所です。仏の智慧で生老病死の四苦を超えるとは、そのことを言っているのです。
 「老病死は嫌だ」「どうして逃げようか」「先送りしようか」「困ったことになった」「不安だ」「絶望だ」「なんで私はこんなことに」「運が悪かった」「何かたたりでは」「あれが悪かったのではないか」などこれは振り回されている相(すがた)で、二の矢を受けていると表現します。病気で苦悩して、病気は嫌だという思いで二重の苦るしみになっているのが凡人の思考・感情ではないでしょうか。
 仏教の智慧を無視しているわれわれの分別は困った現実に直面すると善悪、好き嫌い、都合の良い悪い、勝ち負けなどで心が揺れ動き、穏やかでなくなります。まして死の避けられない「老・病」に直面すると絶望、「つまらんごとなってしもうた」と感情をあらわにすることになります。
 人間の小賢しい知恵でどんなにあがいても老病死にいい意味を見出すことはできそうにありません。

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