「今を生きる」第262回   大分合同新聞 平成27年4月6日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(89)
 老病死の「死」は、医学、医療でいかに頑張っても避けることはできません。死は科学的思考では自分の存在の完全な否定です。生きている人に「死」の経験者はいません。自分の意識の死は自分には分かりません。強いて言うならば、眠っている状態と想像はしますが…。
 仏教では意識(心)こそ種々の因や縁が和合して一刹那的に現象として表れている事象で、固定した「私」として捉えることのできる意識はないということです。縁次第で変化を繰り返す自我意識は無我で無常です。細やかに言えば意識の消滅と誕生を刹那ごとに経験しているのです。
 それがはっきり分かるのが睡眠です。睡眠で意識が無くなることを心配したり、恐れたりしていますか…。われわれが不安に思う「死」は特別なことではない。それなのにそれを恐れるのは仏教の智慧を疑っているということです。
 「ない」ものを「ある」と考え違いをして、その思いに自信を持っているのを我見、邪見と言います。「ない」ものを「ある」と考え違いして、それがなくなる心配をして不安になっているのです。まさに独り相撲を取って空回りをしていることで、「ご苦労さん」と言わずにはおれないのがわれわれの普段の思考です。
 自分で努力精進して仏に近づく道が仏道だと考える聖道門仏教では、仏の智慧を身に着けようと精進するのです。修行によって煩悩の汚染を少なくして知恵を浄化して深め、「全ての存在は縁起の法で成り立っている」という、あるがままをあるがままに見通す智慧を得ようとするのです。
 現実的には努力をしても仏の智慧の目で見る真理を理解することは難しいでしょう。歴史上、多くの人が世間の束縛から逃れて出家をして努力をしてきたのですが、願いが成就できた人は非常に少ないようです。
 平成の時代、欲望をあおって経済優先の雰囲気の中を生きている現代人、そして欲(煩悩)を認めた在家として生活をしているわれわれには、仏の悟り、智慧の目を自力で得ることは不可能ではないでしょうか。

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