「今を生きる」第263回   大分合同新聞 平成27年4月20日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(90)
 仏教と称するもの全てに共通なのは「転迷開悟」です。迷いを転じて悟りを開くということは仏の智慧を身に着けるということです。浄土の教えの「信心をいただく」ということが、仏の智慧の世界を生きることになるのです。だから悟りを開くことと信心をいただくことは同じであって、仏の智慧の目をもった存在になることです。
 浄土とは悟りを開いた仏の存在するところです。阿弥陀仏の西方極楽浄土は有名です。ほかに薬師仏の東方浄瑠璃世界、釈迦牟尼仏の無勝荘厳国などがあります。浄土に往くと、仏から直接適切な指導を受けることによって覚りやすくなると言われています。
 浄土の教えでは臨終のとき阿弥陀仏や観音・勢至菩薩が迎えに来て浄土に連れて行ってくれ、そこで本格的な修行を積んで仏になると考えられていました。転迷開悟のためにこの煩悩渦巻くこの世から浄土に往生して、仏の指導を受けて悟りを開くという方向です。
 往生とは迷いのこの世での命を終えて、悟りの世界である浄土に生まれることです。仏教はこの世で悟りを開くか、浄土で悟りを開くかに分かれます。
 確かにこの世で悟りを開くのが仏教の正統派、本流ではあるのですが、現在、自分で仏教の勉強をして修行するとしても指導してくれる釈尊に相当するような智慧の人がいない。釈尊がこの世を去って2千年以上経過しており その後は釈尊のような相手に応じて指導できる人は誕生していません。また実際修行しようとしても、欲を認めた在家生活をする凡夫には困難であると気付くでしょう。
 この世での仏道修行が難しいことから往生浄土の教えに関心が向けられました。それは無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の浄土三部経として説かれている浄土教の往生思想です。浄土の教えでは仏の力でわれわれを浄土に迎え入れて、浄土で仏の指導を受けて成仏するのです。われわれの心がけや精進の程度を問わないのです。老病死に直面しても修行のできない人にも可能な仏道です。

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