「今を生きる」第265回 大分合同新聞 平成27年5月18日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(92)
釈尊の悟りの内容として説かれていた浄土の教えは、迷いから悟りへ進む能力の乏しい者に、仏の方から助かる道を差し向けているのです。その内容は法蔵菩薩の願いとして神話のように説かれています。法蔵菩薩とは、阿弥陀仏が衆生を救わんがためにこの世に身を現わして、人、動物、事物の相(すがた)を取って働いている菩薩の名前です。
浄土とは、仏の働きが展開している場です。一般名詞で、駅とか病院とか言われるようにいろいろな仏の浄土があります。今日、一般では阿弥陀仏のいる所が代表的に浄土と言われます。浄土は人間の考えるこの世、あの世を超えた「場」です。浄土は阿弥陀仏の影響や雰囲気が漂っている場ということができます。浄土に往くとそこには仏が居て、仏法が説かれていて、求道の友がいるのです。厳かな雰囲気で心の洗われる法話が聞けて、仏法を学んで、仏の智慧で生きていこうという勇気をいただける場と考えるとよいでしょう。お寺が本来そういう場であることが願われるのです。
「南無阿弥陀仏」と念仏する時、われわれは仏の眼、悟りの視点で見えるように智慧を頂くのです。念仏しない普段の思考では、煩悩に汚染された眼で見るために迷いの視点で見ているのです。
視点の違いを分かりやすく例えると、海に浮かぶモータボートを思い浮かべて見て下さい。モータボートがエンジンをふかして進むとき、ボートを操縦する人の立場ではスクリュ―を回して水を後ろに押しのけて進んでいると考えます。一方海の立場で考えると、スクリューが水を押しのけようとするから、それに対抗して押し返す力でボートを押し進めていると大局的(全体的)に見るのです。その証拠に、陸でいくらスクリューを回しても前に進まないでしょう。
仏の大局的な視点を持てるようになるのは、南無阿弥陀仏のわけがらを十分に聞いて、仏の心に触れ続けることが大事です。なぜなら我々の眼はどっぷりと煩悩に浸かって迷っているからです。
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