「今を生きる」第266回 大分合同新聞 平成27年6月1日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(93)
浄土と言うと、世間的な極楽というように楽しみに満ちた世界のように誤解されるのですが、この世での悟りの困難性、修行をすることへの能力的な難しさ、仏の言葉でいえばわれわれの「凡夫性」を見透かして、迷える凡夫のために浄土の教えが説かれたのです。自分で転迷開悟できると思っている、いわゆる立派な人には縁のない世界です。
迷える凡夫のために、情緒的な説き方「西方極楽浄土」「往生浄土」という、清浄で清涼な浄土の世界に生まれ変わるという表現になっています。
自分の生き方に自信のある多くの現代人は、「浄土や仏の智慧なんか要らない、そんなの頼りにならない」と思っています。そして、この世に自分の思いを実現した天国をつくろうとしてゆくのです。
ゴルフ場やリゾート観光地は、世俗から離れて非日常を感じてもらうのに腐心しています。そこまで行かなくても、これからの季節、仕事が終わって冷えたビールを飲みながら「これこそ天国」と心地よい気持ちに酔って楽しむのです。そして自分の煩悩(欲望)を楽しませることがこの世の喜びだと豪語するのです。
われわれの考える「救い」は、困った課題が解決したり、現在の私の状態よりもよい状態へ、あるいは、より高い状態へ移っていくことが「救われる」ことだと思っています。
仏教の「救い」はそうではありません。仏教の救いは、「迷い」を転じて悟りを開く(智慧を頂く)ことです。
自分の願い通りになると幸せに浮かれ、思い通りにならないと不幸だとどん底に沈み、浮きつ沈みつしている人生を「迷い」と教えるのが仏教です。
浄土とは、仏智によって世間的な幸も不幸も公平に平等に受け取っていける世界です。「これが私の背負うべき現実、南無阿弥陀仏」。そう念仏するところに、「心は浄土に遊ぶなり」というように浄土を感得して取り組む勇気を鼓舞されながら生きる世界が展開するのです。
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