「今を生きる」第268回   大分合同新聞 平成27年7月6日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(95)
 70歳すぎの知人が医療相談に来られました。2年ぐらい前から時々痰がでるようになり、その痰に茶っぽい色がつくことがあって、本人は肺がんかも知れないので、検査のために病院を紹介してほしいとのことでした。
 「検査をしたらもう手遅れだった」と言われると損だからとおっしゃるような心配性の傾向のある人と知っていたので、そんな心配をするのならもう少し早く来ればよかったのにと思いつつでした。
 時間をとって病歴を詳しく聞くと、痰に血液を混じてないし、この1年で症状の増悪はないので、頻度が増えたら検査の紹介状を書くと説明をしました。知人は肺がんを強く心配していましたが、医師の立場では、痰が増える原因は鼻腔、副鼻腔、咽頭、喉頭、気管支、肺などの様々な病気を見逃さないように注意しないといけないことを説明した。
 知人は若い時から副鼻腔炎のいろいろ治療を受けてきたと言います。症状の経過を診ていきましょうと話し、一ケ月後に再来院していただくことにしました。
 医療関係者に病気や健康について気軽に相談でき、分かりやすく説明を聞く時間が持てる関係があるとよいだろうと思われました。しかし多忙な医師には無理なお願いかも知れません。
 地域の高齢者教室で「健康、長生き」の話をした時、人間の身体機能には余力が六割もあり、正常機能の三、四割が機能すれば天命を全うできることを説明したら、「健康と言うのは百点満点の健康でなければいけないと思っていました。今日、お話を聞いて気が楽になりました」と感想を言われました。
 何においても物事を広く、深く全体像を見極めるということが大事なのです。医学教育を受けた医師が人間の身体や病気のことで素人よりも詳しいのは当然ですが、宗教的世界に接点を持ってみると、医師の身体面での知識の豊富さは認めますが、「人間とは?」、「人生とは?」という全体像の把握において十分でないことを認める謙虚さが必要と思われます。
 生命現象の解明においては未知なる領域は無限に広がっているように、遺伝子の研究者が未知なる領域の解明が進むたびに、「さらなる課題が現れてきました」と言われていたのが印象に残っています。

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