「今を生きる」第269回   大分合同新聞 平成27年7月20日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(96)
 精神科医で作家の加賀乙彦さんが死刑囚と無期懲役囚の心理を研究されています。その中での経験についてお話です。
 ある死刑囚と16年間文通されて、それを「宣告」(新潮文庫)、「ある死刑囚との対話」(弘文堂)に書いています。彼は信仰の世界で非常に深いところにいて、哲学的にも文学的にも豊富な知識を持ち、本当に感心したと加賀さんは述懐しています。その彼は40歳の時死刑を執行されたそうです。 
 彼の死を悲しんでエッセーに書いたら、彼と文通していたという女性から連絡がありました。3年間に600通もの手紙で、3日おきに長い手紙を書いていたそうです。内容は、やんちゃでユーモアがあり、人間的に温かいもので、彼にもこんな側面もあったのかと驚いたそうです。
 そしたら、今度は彼の母親から獄中の手記を遺言だからといって送ってきました。読むのに数年かかりましたが、加賀さんや女性とやりとりした手紙とは違った第3の人間が現われ、手記の中の彼は悩める人で、信仰を持ちながら信仰を失いそうになって、いつも神に必死に祈っている、本当に哀れな人間でありました。
 これらの経験から加賀さんは、人間の心を分かったような気になっていたが、とてもとてもとても人間には分からないと思ったそうです。
 そのとき考えたことは、科学には限界があり、私たちが科学でもって何かをやるということは、あるところまでは知るが、それから先は闇で何も分からないということが分かり、人間の集積した知識なんて全宇宙存在に比べたらほんの微々たるモノで、その広大な宇宙については何も分からない、無限に分らない、われわれは闇の中に投げ出されていると思ったと言われています。
 そして人間の全体像の把握や人生というものは科学の対象にならないと痛感したと書かれています。 
 人間の生老病死の四苦に対して医療も仏教も同じものを課題として取り組んできましたが、互いが自分の領域の分限を謙虚に知り、協力して苦しみ悩める人間に寄り添う取り組みが切に願われます。

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