「今を生きる」第272回   大分合同新聞 平成27年9月7日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(98)
 関係性を考えるとき、私の存在は空気や水、土などのいわゆる環境と関係があります。そして仏教で衆生(しゅじょう)といわれる種々の生き物との関係があります。
 田舎生活と都会生活とを比べると、きれいな草木の緑の広がった空気か、多くの人の生活する汚染した都市の空気かの違いが出るでしょう。自然に囲まれた自宅の自前の井戸水か、塩素消毒した市営の水道水を使う生活か。温暖な夏の長い沖縄か、寒い冬の長い北海道か。
 人間の存在は環境と密接な関係にあります。関係性という表現では十分に表せない,切っても切れない関係、すなわち環境に生かされている、一体ともいえる間柄なのです。
 私の身と水や空気などの環境は一体のものであるということ、仏教では「身土(しんど)不二(ふに)」といいます。私の書斎や部屋が散らかっていると、その環境は私にぴったりだというのです。なぜならその環境の中心人物は私であり、私が日常生活でその環境をつくっているからです。逆にそれを環境の立場からすると環境が今のあなたを生かし、支え、つくりあげているといえるのです。
 衆生との関係はあらゆる人間関係(過去から現在まで)や種々の食べ物が現在の私をつくり上げ、支えているのです。衆生と私は別々ではなく一体の密接な間柄ということです。今までに飲んだり食べたり呼吸したものが今の私をつくり上げたのです。地域や社会、制度、人間関係が現在の私の人間性や能力をつくり上げているのです。
 関係性を考えるとき、われわれの理知分別は個々のものが別々に在り、「分離して在る」と考えて、それらのものを関係性があると分別で結び付けようと考えていこうとします。そうすると善悪、好き嫌い分けていくことになりやすいでしょう。
 一方仏教の智慧の視点では、本来一体(仏教用語で「一如」)のものを一時的に名前を付けて区別しているだけだという立場です。互いが原因や縁となり、密接な相互関係で作用しあって一時的に「私」、「あなた」の姿を取っているだけで、固定した「私」「あなた」ではない無我、無常ですと見るのです。

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