「今を生きる」第273回 大分合同新聞 平成27年9月21日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(99)
われわれはいろいろなものに名前を付けています。名前や言葉を多く知っていることは表現を豊かにしてくれます。言葉を多く共有することは心が通じ合う上で貴重な要因になります。
一方、言葉は現実と遊離して「頭でっかち」と呼ばれる傾向に導く欠点があります。知的な仕事の多くなる現代人の問題点だと思われます。
夜空に浮かぶ月を指さすとき、月そのものははるかかなたにありますが、それをさす指はここにあります。指をいくらよく見ても本物の月ではありません。月という言葉はわれわれにそのイメージをさせることはできますが、本物の月ではありません。
名前で呼ばれるものの関係性を考える時、それらが個々に分離して存在すると考えて、それらの関係性を再認識しましょうというふうに考えるのが人間の理知分別の思考です。そこにはお互いが別々に離れて存在するという発想があるということです。
一方、個々のものが分離して存在するのではなく、例えば地球上の見えないもの(原子・分子レベルで)や見えるもの(事物)は時間的、空間的に大きな一体(一如(いちにょ))のものであり、一時的に姿や形を変えているものに人間が便宜的に名前を付けているという考え方もできます。すなわち、個々のものは分離できない、区別しているだけの在り方をしていると仏教の智慧は教えるのです。
具体的には、日常生活で出会う種々の事物は私に密接な関係があり、私を支えて生かしてくれている。さらに進めると種々の事物は私に何か教えようとしている、願っている、気づかせようとしていると受け止めるのです。分別の心からは、嫌なこと、困ったこと、関わりたくないことであっても、仏教では、その現実はあなたを真実の世界に目覚めさせようと働いていると教えるのです。
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