「今を生きる」第274回 大分合同新聞 平成27年10月12日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(100)
マージャンは自分で取ってきた牌(ぱい)から種々の組み合わせをつくっていくゲームです。どういう牌を持ってくるかは運次第です。持ってきた牌が思い通りでなくても、他人に文句の言いようがないのです。与えられた牌からできる組み合わせを、他人の捨てた牌の情報と、自分が持ってくる確率の高いであろう牌を想定して、その場その場で運を天に任せながら最善を尽くしていく遊戯です。
仏教の言葉に「随処(ずいしょ)に主となる」があります。意味はいついかなるところにあっても「ここが仏さまから私に与えられた処(ところ)」として受け止め、精いっぱい力の限り生き抜くことです。
生まれてすぐの赤ん坊は自分に与えられている場を全面的に受容しています。育児放棄されても、それを受け入れていくでしょう。親に全くお任せですから、受け入れていくしかないのです。
その後、物心がついて分別するようになると、自分の周囲の状況を見て「好き嫌い」「善悪」などを主張するようになります。好き嫌いを言っても、多くの場合は与えられた場が大きく変わるわけではないのです。その時期を経験したり、大人になって社会経験を積んでくると、大局的な視点が分かるのです。
戦争中に過酷な強制収容所を経験した精神科医師フランクルは、「人生にイエスと言う意味があります」「どんな状況でも人生にイエスと言うことができる」と語っています。それは「人生で直面する現実を損得、勝ち負け、成功失敗などと受け取るのではなく、この現実は私に何を演じさせよう、何を教えよう、何を期待しているのかと考え、私が人生の答えを出さなければならないのです。」と言っています。
周囲の状況に批判、文句を言うなと述べているのではないのです。批判し文句を言って、いろいろ行動を起こして状況が少し変わったとしても、その変わった状況があなたを支え、生かし、願い、気づかせようとしているのです。
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