「今を生きる」第275回   大分合同新聞 平成27年10月19日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(101)
 人間の生命を考えるとき、「生きている」ことと「死ぬ」ことは別々のことだと考えます。500年、1000年生きるのが当たり前になると「生きている」という言葉はあまり使わないようになるでしょう。現在のわれわれの思考がそれに近い状態なのです。死が切迫してない、当分死なないように思っているために、生きている事の「有ること難し(ありがたい)」に目覚めないのです。
 「生きている」ことの「当たり前」から思考する人生は、次の段階として「どう生きるか」「生きることの方向性」を考えます。われわれは誰からも教えてもらってないのに「しあわせ」を目指して生きている、と言い当てたギリシャの哲学者がいます。
 「しあわせ」を目指すとき、世俗のわれわれは仏教の智慧ではなく、世間の物差しを使うことになります。世間の知恵は「物の表面的な価値を計算する見方」と指摘されています。われわれの思考は「私」と「周囲の物柄」を切り離して対象化します。そしてそれは私にとって、善悪、損得、勝ち負け、利用価値の有無などを小賢しく計算します。
 その思考方法で「老・病・死」をも考えることになります。若さに対する「老」、健康に対する「病」、生きていることに対する「死」、これらは「しあわせ」とは反対の方向ですからわれわれは受け取ることが難しいのです。
 日々の生活は「生きている」「生かされている」、これを前提に「生きる」「しあわせを目指して生活している」と気付くことを仏教は教えようとしているのです。
 「人間とは」「人生とは」という物事の全体像をどちらの思考が正しく見ているかということが問題になります。間違った思考に執われるのを「頑固」「かたくな」「柔軟性がない」と表現します。読まれている皆さんの心は頑なですか、柔らかさを持っていますか。

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