「今を生きる」第279回 大分合同新聞 平成27年12月28日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(106)
老病死に起因する苦しみを解決しようと医療は不老不死を目指して取り組んでいます。仏教は「生死勤苦(ごんく)の本(もと)を抜く」と言って、いくら不老不死を目指しても、それはかなわないことであると見透かし、「苦」の根本的な解決への思索で「悟り」「目覚め」に到達して生死の苦を超える道を見いだしたのです。
仏教の悟りを頭で理解しようとする科学的思考では「信じられない」「死を超えられるはずがない」という反応を示すことは最もなことでしょう。
かたや科学的な思考の医学も矛盾する思考を含んでいることに目覚めないといけないと思います。「生きる」ことを輝かすために不老不死を目指すのでしょうが、死なないようになると「生きている」ということの意味もなくなります。
また一歩譲歩して「死」は避けられないとすると、不老不死を目指す医療は必ず「死」は敗北、絶望となるでしょう。
仏教の思索による「生死勤苦の本を抜く」ということは老病死をなくすというのではなく、「苦」というものを深く思索したのです。「生死勤苦」とは、私たちの人生は絶え間なくさまざまな苦を受けていかなければならないということです。その苦の代表が「貧病争」です。
経済的な苦(貧)、肉体的な苦(病)、精神的な苦(争)にさいなまれたとき、何らかの方法で苦から開放されたいと思うのは人間として自然です。「貧病争」をなくそうとしてきたのが人類の歴史でした。
釈尊も、国の直面する問題の解決に真面目に取り組んだと思われます。しかし、その行政的な取り組みには果てがないことにも気づいていったのでしょう。そこで問題の根本的解決を目指して出家、修行、思索されたのです。その結果「生死勤苦の本を抜く」智慧の世界への目覚め、悟りを実現したのです。
それまでの「貧病争」をなくす方向ではなく、その受け止め方を180度変えるような、普通の思考の次元を超えた発想で苦の「本」を抜く、仏の智慧を悟ったということです。
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