「今を生きる」第281回   大分合同新聞 平成28年1月25日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(108)
 仏教の智慧の世界は仏にしか分からない世界です。仏々相念といって、仏のレベルに達した人だけが仏の世界を受け取れるというのです。
 それではわれわれに分かるのは仏教のどういうところが分かるのでしょうか。仏教の教えに自分が照らされて、自分の分際というかありさまが受け取れるのです。仏の教化を受けて仏の智慧の視点で物事を見たり聞いたりできるように導かれます。
 しかし、それは仏教に育てられ、智慧が少しずつ身につくようになってからです。教えてもらわなくて、自分で仏の智慧を持つことは不可能です。
 時々「仏教の智慧が分かった」という人がいますが、その発言をどう考えるでしょうか。「分かった」と言った瞬間、仏教がその人の理解の中に取り込まれたような発言になっています。それは仏教を理解の中に収まるような小さなものに矮小(わいしょう)化したということです。仏の智慧の一部を私有化して煩悩で汚れた自分の理解力でつまみ食いして、味わった気になっているのです。
 仏教は煩悩の執(とら)われから解放させるものであるのに、煩悩自体は破られずに煩悩に汚染された分別による理解の中に仏教を閉じ込めるのです。煩悩に汚染された在り方を、仏教では餓鬼・畜生(人間ではない)と表現することがあります。教えてもらっても「自分で分かった」、「自分で考えた」といいます。
 多くのおかげさまに支えられ、生かされていても、「私は他人の世話にはなっていない。自立しています」という人がいます(ひとごとではありません)が、そういう人に限って、他人に対して「人に迷惑をかけるようなことをするなよ」と意見などする傾向があります。仏教は「人に迷惑をかけずには生きることができないことに気付く人間になれよ」と教えているのです。
 入試が難しいという大学に合格できたとき、勉強のできる能力の人間に育てていただき、勉強する条件を整えてくれた家族、そして親切に教えてくださった先生方のご苦労に感謝してお礼が言えるとき、初めて「餓鬼・畜生から人間になった」といえるのでしょう。人間になることは難しいことなのです。

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