「今を生きる」第288回   大分合同新聞 平成28年5月2日(月)朝刊 文化欄掲載

医療文化と仏教文化(115)
 われわれは「救い」というものを困ったことから解放されることと想定しています。そして老病死、特に「死」を避けることができない、解決のしようのないものだと考えています。
 そのために、多くの人が「死んでしまえばおしまい」と思っています。だから「死」はいくら考えても解決の方法はないが、人間は必ず死ぬものであるから、できるだけ死を考えないようにして生活をしています。
 特に医療関係者は日常の仕事で患者の死をしばしば見ているために、患者が種々の治療に反応しないような状態になると、死からの救いはないと考えています。
 仏教が生老病死の四苦を超える道を教えてくれています。「超える」ということで表現しているのは、一般の常識的な「救い」のイメージとは全くといっていいほど異なった「救い」の世界に気づかせてくれるからです。
 一般的には老病死から救われるときは「不老不死」ということを想定します。仏教が教える「死からの救い」は、死というものを根本から考えていきます。
 私の「死」というものは一体どういうことなのでしょうか…。他人の死は認識できても、自分の死は認識できません。肉体的な死は想定できても、「私」という意識の死は想定できません。
 強いて言うならば眠っているような状態だろうかなどといろいろ考えますが、1人称(自分)の死の情報は全くないので分からないのです。
 仏教の教えの基本、「縁起の法」で知らされることは、死とは命の現象の表を「生」とすると裏が「死」というようなことでしょうか。一枚の紙の表と裏は分けられない、一体のものです。
 われわれは「死」が将来にあるように思っていますが、「死」は、「今、生きている」ことに裏打ちされたものなのです。死をなくせば「生きている」ということもなくなるのです。
 「生」が単独であるのではなく、「死ぬ」のが当然のところを無数の要素によって生かされて、支えられて、存在しているということです。仏教は深い智慧で死を思索して、死を超越する道に導くのです。

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