「今を生きる」第289回 大分合同新聞 平成28年5月16日(月)朝刊 文化欄掲載
医療文化と仏教文化(116)
死を超越する道は普通の思考では考えられないでしょう。世間的な思考を分別知(ふんべつち)と言います。善悪、損得、勝ち負け、上下という様に二元的に分別して考えるのです。
仏の思考を無分別知といいます。無分別知と分別知の世界は次元が異なるもので、分別知からは理解できないでしょう。それで、分かるように説明をするのがむつかしいのです。
しかし、無分別知の世界からわれわれの思考(分別知)の問題点を指摘されると、「なるほどそうか、言われることはもっともだ。言われることにうなずける」というように受け取れるでしょう。
仏教は「今、ここ」の実感を大切にします。今、今日しかないというように、その瞬間、瞬間を取り返しのつかない貴重な「今」と受け取るのです。仏教では時間の最小単位を「一刹那(約1/75秒)」といいますが。一刹那の今を考えることは難しいのです。
仏の思考では「生」、すなわち生きていることの先(延長線上、将来)に「死」があるとは考えないのです。命の現象の表裏が「生」と「死」なのです。仏教では「生死一如(しょうじいちにょ)」と表現します。
生物学的には人間は60兆個の細胞で構成されていて、毎日その細胞の約200分の1が死滅していくと同時に同数の細胞が再生されて生命現象が維持されていると言われています。
「諸行無常」の理の如く常なるものはなく、必ず変化(細胞では死滅)していきます。人間の体は細胞レベルで生命現象を維持するために、細胞が死滅する前に自分で壊して、そして再合成することでかろうじていのちが維持されています。
「生きている」ということは自転車操業のように「破壊」と「再合成」のバランスの上にかろうじて「生かされている」のです。このことは生命の分子レベルでも実験で諸行無常の事実が証明されています。
生命現象のいのちが維持されること、生きているということは「在ること難し」であるということが分かるでしょう。仏教の教える「生死一如」と整合性があるように思われます。
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